ナショナリズムの超克

 ナショナリズムの超克--植民地と後進国におけるプロレタリア革命のための任務

 その国が後進の資本主義国であり、帝国主義諸国からさまざまな政治的軍事的および経済的の規制をうけているのだとしても、資本主義国家がうちたてられているのであるかぎり、その国の労働者・農民が「ナショナールな意識」「民族意識」といった即自的な意識をもっていると想定しそのように論じるのは、きわめて観念的な理論操作である。なぜなら、ブルジョアジーはみずからの国家をうちたてる過程において、そして国家を樹立したうえでは国家権力者および支配階級として、ナショナリズムのイデオロギーを生産し流布し、被支配階級たる労働者階級・農民にそれを貫徹して、彼らをその国家(state)のもとに国民=民族(nation)として統合したのだからである。したがって、個々の労働者や農民は、国家権力者とブルジョアジーが流布し教育によって付与したナショナリズムをうけいれ体得して、自分自身の意識をつくりだしたのであり、その意識は、自然発生的に生みだされた即自的な意識では決してないのである。

 まさにこのゆえに、この国の革命的プロレタリアが創造した前衛党は、ナショナリズムをふりまき教育する国家権力者や支配者たちや支配的知識人・教育者たちとのイデオロギー闘争を徹底的に遂行しなければならないのであり、労働者や農民を彼らがうけいれ体得しているナショナリズムのイデオロギーから解き放つための彼らとの思想闘争を、さまざまな闘いの過程において、またその闘いの総括をとおして、執拗に組織的にくりひろげなければならないのである。このような国の「労働者・人民の民族意識を前衛党は受けとめる」というような話しでは決してないのである。

 だからまた、このような資本主義国家と帝国主義国家とのあいだに生みだされている問題を「民族問題(national question)」というように捉え、そのように描きあげるのは、観念的な意識操作なのである。

 これにたいして、レーニンの時代や1950~60年代の植民地について考えよう。

 われわれは、帝国主義国が或る地を植民地とし、その地の労働者たちや農民たちを直接的に支配しているという問題を、「民族問題」と捉えることができる。

 その地が帝国主義国の植民地であったばあいには、その地の労働者や農民は、外国の国家に自分たちが直接的に支配されることにもとづいて、この支配への反感と反発を民族意識というかたちで抱くのであり、このことを物質的およびイデオロギー的基礎として、この地の革命的プロレタリアが創造するプロレタリア党は、「民族独立」を、プロレタリア世界革命の一環としてのこの植民地のプロレタリア革命の過渡的要求として、明らかにし提起しなければならない。

 帝国主義国家と諸独占体は、その植民地に資本を直接的に投下して、その地の地主階級を支配下におき、農民をその地主の小作人・あるいは・新たにつくりだしたプランテーション経営の農業プロレタリアに転化する。それとともに、鉱業および工業を起こし、自分たちの指示のもとに動く資本家を育成すると同時に、農民から土地を収奪して彼らを鉱工業プロレタリアに転化する。このときに育成された資本家は、買弁ブルジョアジーとなる。この動きに反発したところのこの地の比較的に上層の部分は、民族ブルジョアジーや小商品生産者層やまた知識人層へとみずからを成長させ、これらの諸階級・諸階層を形成する。これらの部分は、「民族独立」を旗印としたナショナリズムのイデオロギーを生産し、労働者や農業プロレタリアをふくむ農民にも流布する。

 プロレタリア党は、労働者と農業プロレタリアと地主のもとで働く農民にナショナリズムからの脱却と階級的自覚をうながし、彼らを階級として組織して、彼らのヘゲモニーのもとに民族ブルジョアジーやその他の諸階層と提携して統一戦線を結成し、これを主体として、植民地支配と搾取と収奪に反対する闘いを展開しなければならない。プロレタリア党は、この統一戦線をソビエトの結成へとたかめ、これを実体的基礎として、帝国主義本国のプロレタリアートとの国際的な階級的団結のもとに、プロレタリア的諸任務とともに「民族独立」の任務を、この地におけるプロレタリアート独裁権力の樹立として遂行し実現しなければならない。

 これが、植民地においてプロレタリア革命をどのように実現するのかという主体的推進の構造の主体的解明である。

 この植民地革命の構造の解明とは区別して、資本主義国家がうちたてられている国において、前衛党は、プロレタリア革命を実現するためにプロレタリアートをどのようにして階級として組織するのかということの主体的構造を、われわれは主体的に解明するのでなければならない。

                         二〇二三年四月二八日