「グローバル資本主義」論批判

 「グローバル資本主義」という規定にはらまれている方法論上の問題

     ――その一 価値意識

 アメリカを中心とする今日の資本主義経済を「グローバル資本主義」とよぶ風潮がひろまっている。ヘッジファンドをあやつるジョージ・ソロスがこの用語をつかったからかもしれない。ソ連を崩壊に追いこみグローバルな発展をとげているものとしてこの経済を謳歌する立場にたってのものであれ、種々の矛盾をあらわにしているものとしてこれへのちょっぴり批判的な態度をしめすものであれ、この呼び名がつかわれている。だが、労働者・勤労大衆にとっては、グローバル化とは、自分たちがますます悲惨な貧困へと突き落とされることをしか意味しない。日本経済の立ち直りとそのグローバルな雄飛をかけて放たれた・アベノミクスの三本の矢にしてからが、労働力不足という名のもとでの、超長時間・超強強度の過酷な労働を、労働者たちによりいっそう強いただけなのである。あれほど騒がれた賃上げも、その上げ幅は、消費税増税の上げ幅の足元にもおよばないものでしかなかった。「グローバル資本主義」という呼称は、この現実を、あたかもうるわしいものであるかのように描きあげ、労働者・勤労大衆を欺瞞するものなのである。
 ここでは、鶴田満彦著『グローバル資本主義と日本経済』(桜井書店、二〇〇九年刊――以下、この本からの引用はページ数のみを記す)を検討の対象としてとりあげ、論点を一つにしぼりながら順番に論じていくことにする。中央大学名誉教授であるこの人物は、一九三四年生まれということであるから、私よりもさらに年上の老人である。書いているその内容からするならば、この著者は日本共産党系の学者であり、現存する資本主義をよりよいものにしていく、という修正資本主義の路線にのっとっており、その内容とそこにつらぬかれている階級的・党派的な立場はどうしようもないものなのであるが、こういう学者にしては、その文章は比較的にしっかりしている。どういう現実をさして、これをどのように問題にしているのか、てんでわからない、というようなものではない。それゆえにこの著書をとりあげるわけである。

 マルクスに何を学んだのか

 この学者の信条は、この著書のあとがきでの次の言葉にしめされている。
 「一九九〇年代のグローバル資本主義は、金融と情報を先頭にした米国主導のそれであって、その新自由主義的経済政策によって、民営化、福祉削減、非正規労働の拡大、格差拡大をもたらしたが、他方では、BRICsに代表される新興工業諸国の飛躍的な発展をももたらしていた。私は、日本のバブルの形成と崩壊による「失われた一〇年」、一九九七~九八年アジア・ロシア・中南米通貨金融危機、米国のITバブルの崩壊(二〇〇〇年)等を材料にして、主としてグローバル資本主義の陰の部分に批判的言説を表明してきたが、率直にいって数年前までは、まさかグローバル資本主義が米国サブプライム・ローンの焦げ付き問題を契機に今日現出しているような世界金融危機・世界経済恐慌を引き起こすとは推測していなかった。その意味では、せっかく若い時期からマルクスに学んできたはずなのに、資本主義と市場経済の合理性と効率性を過大評価してきた不明を恥じ入るほかない。
 しかし、今回の恐慌による米国型金融モデルと新自由主義の破綻によって、グローバル資本主義は、多極型・規制許容型・格差是正型のよい方向のグローバリゼーションへ向かうのではないかと思われる。私は、長期的には、経済社会を営む人間の英知に信頼をおいている(終章参照)。グローバル化からブロック化への「逆流」はありえず、福祉国家はスリム化しても維持されるであろうし、グリーン・ニューディールによって環境危機もかなりな程度克服されるであろう。グローバリゼーションのなかで、今世紀半ばには、BRICsが、米国や日本を超える経済大国になり、単独覇権主義は許されぬものとなろう。強欲に代わって、ボランティア精神と共同と平等が経済社会に広がるだろう。たしかに、このようなことは、今日では夢であろうが、私はキューバの革命家・詩人であるホセ・マルティとともに「今日の夢は明日の現実になる」ことを信じている。」(三四四~四五頁)
 一見誠実に恥じ入っているようなのであるが、この人はいったいマルクスに何を学んだのであろうか。資本主義と市場経済の合理性と効率性への自分の評価は過大であった、と彼は反省しているのであって、資本主義と市場経済を、合理性と効率性をもつものとして評価することそれ自体については、なんら否定してはいないのである。よりよいグローバル資本主義を、資本主義がよい方向のグローバリゼーションに向かうことを、彼は望んでいるのである。グローバル資本主義のバラ色の未来を、彼は夢に描いているのである。今日の世界金融危機を、労働者たちの生き血を吸って延命してきた資本主義経済そのものが破綻したものとしてあばきだすのではなく、よりよいグローバル資本主義が存在しうるのだ、というように労働者・勤労大衆に、彼は幻想をあおりたてているのである。今日の中国やロシアの政治経済構造が独自の資本主義的なものへと変質したことを、すなわちそれぞれの国家権力をにぎっている両国の指導部が労働者たちをプロレタリアに転化し彼らを搾取する資本家階級にみずからが成り上がったことをあばきだし弾劾するのではなく、この両国がブラジルやインドともども資本主義国家としてのし上がることを、アメリカに「単独覇権主義」を許さぬものとして、彼は美化し待望しているのである。これでは、彼の描く夢は、二十一世紀現代の資本主義諸国家間の争闘戦において、アメリカに対抗する部分の伸長を期待しそれに拍手をおくる、というものでしかない。労働者たちの苦悶とは、それは無縁である。彼は、マルクスの魂をなんと踏みにじり足蹴にしていることか。
 まさに、マルクスは、資本制商品経済的物化そのものをその根底からくつがえすためにこそ、すなわちプロレタリアの疎外された労働を止揚し労働の本質形態を実現するためにこそ、この資本制商品経済をその物化された形態において本質論的に解明したのである。マルクスのこのガイスト(精神)をついにわがものとすることができなかったのが、わがスターリン主義学者・鶴田満彦なのであり、現代ソ連邦の崩壊とともにおのれのよりどころをなくし、若いころにはもっていたであろう・資本制商品経済を止揚するという信条そのものを最後的に捨て去ったのが彼なのである。彼のうちになお残っているのは、自分は若い時期からマルクスに学んできたはずだ、という自己慰撫の心情だけである。現代資本主義のグローバルなかたちでの延命に、かつてはマルクス主義者を自称していた者たちのほとんどがのみこまれてしまっているという現状においては、グローバル資本主義そのものにではなくその陰の部分に批判的言説を弄しているというだけでも、彼は貴重だ、というべきか。人生の最期をむかえようとしている人にこのような言葉をおくることは酷であるかもしれないが、私はあえて書いた。自己の生の最期であるがゆえにこそ、自己の熱情のすべてを燃えあがらせて、マルクスの魂をわがものとするために努力すべきだからである。

 「グローバリゼーションの三つの要素」論

 グローバリゼーションへのこの学者の否定感は、彼の次の規定にしめされている。
 「グローバリゼーションは、まず、資本・商品・サービス・労働力・技術・情報の国際的移動の増大といった実態にあらわれている。」「グローバリゼーションはまた、このような諸資源の国際的移動の増大を推進してきた国民国家や国際諸機関の自由化・規制緩和の政策をも指している。さらに、グローバリゼーションは、世界的な自由放任(レッセ・フェール)こそが、ベストの効率と経済的構成をもたらすという市場原理主義的イデオロギー=グローバリズムとも結びついている。グローバリゼーションといわれているもののなかには、実態と政策とイデオロギーという三つの要素があることを注意しなければならない。」(三九~四〇頁)
 このような「グローバリゼーションの三つの要素」論は、今日の経済的現実を分析する主体たるこの学者の価値意識にもとづくものである。グローバリゼーションにかんして、その実態は、悪い方向と良い方向とがあり、またその政策も、悪いものと良いものとがあるけれども、そのイデオロギーである市場原理主義は悪い、という価値意識に、それはもとづいているのである。このような価値意識をもっているがゆえに、彼は「三つの要素がある」と言わないわけにはいかなかったのである。このことが、グローバリズムをもろ手を挙げて賛美する者にたいする彼の独自性、優位性をなしている。と同時に、うみだされている現実に彼がちょっぴり否定感をもっているにすぎないこと、否定的肯定の態度であるにすぎないことを、如実にあらわしているのである。
 たとえこのような価値意識にもとづくものであるとしても、グローバリゼーションとよばれているところのもの、この物質的現実を、実践=認識主体としてのわれわれは、うみだされている経済的実態そのものと国家の政策とこの政策を規定しているイデオロギーの三者に分化するかたちにおいて分析しなければならない、というかぎりでは言いうることである。いや、このように認識論的におさえることこそが肝要である。ところが、「……もののなかには、三つの要素がある」としたのでは、経済的実態にかんする規定・国家の政策にかんする規定・イデオロギーにかんする規定の三者を対象的世界にころがっているものであるかのようにみなす、すなわちわれわれの思惟の所産である諸規定を実在化したうえで、こうした「もの」を「要素」として三つに区別する、という唯物主義、タダモノ論に転落しているのである。われわれが対象的現実を、もろもろの側面に分化し(われわれが分析する対象領域の確定)、さまざまな角度から・アプローチのしかたをかえて・分析する、というわれわれの認識=思惟作用にかかわる問題を、われわれがとる食物を、実験において、でんぷん・タンパク質・脂肪・その他といった栄養素に分解する、というような対象的世界のことがらと同じようなものとしてとりあつかっている、ということである。このことは、グローバリゼーションは、イデオロギーとも「結びついている」、という表現にもしめされているのである。
 こうした誤謬に彼がおちいるのは、現下の経済的現実とこの現実にみずからの経済政策を貫徹する現存国家という二実体を措定することをぬきにして、現存国家が経済政策を経済的現実に貫徹することをとおしてうみだされたところのものをあらわす・グローバリゼーションという規定、この規定を実体化しかつ実在化したことにもとづくのであり、「現代の怪物」(四一頁)というように実体化され実在的なものとみなされた・グローバリゼーションという規定から、実態・政策・イデオロギーという三要素をとりだす、という観念的な操作をやったからなのである。このことは、われわれが、われわれのおいてある場所をなすこの物質的現実をどのように分析するのか、という実践=認識主体としてのわれわれの認識=思惟作用そのものの問題を考察することができない、タダモノ主義という、スターリン主義者に伝統的な誤謬に彼もまた陥没していることにもとづくのである。
 そうであるがゆえにこそ、三つの要素なるものをあげつらったとしても、現下の経済的危機をのりきるための現存国家の経済政策、この政策の・国家による貫徹を媒介として変化した政治経済構造という実態、そしてこの政策を規定しているところの国家権力者のイデオロギー、というように、それらを構造的に把握することはできないのである。今のべたように構造的に把握するならば、グローバリズムというイデオロギーは悪いけれども、グローバリゼーションという実態や政策には、悪い方向のものと良い方向のものとがある、といった区別だて、悟性主義的な判断は、でてきようがないのである。資本制生産様式そのものを廃絶することをめざすのではなく、「望ましい経済システム」として良い方向での資本制経済のグローバルな発展を希求する、という自己の展望を正当なものとして基礎づけるためにこそ、彼は即物的な自分の頭を活用した、というべきであろう。

 註
 なお、現代中国の政治経済構造の変質の分析、現代世界を変革するための指針、そして、現代ソ連邦が崩壊したその根源の分析などについては、拙著『経済建設論第一巻、商品経済の廃絶――過渡期社会の経済建設』西田書店(東京・神保町)、二〇一四年九月刊、を見られたい。
                                 二〇一四年九月二十九日